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歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。

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710年 平城京へお引越し

元明天皇は、都を今の奈良市に平城京を作り遷都(せんと・都を移すこと)しました。784年に長岡京(京都)に都を移すまでの74年間、平城京が文化・政治の中心となります。この時代を奈良時代といいます。

ちなみに、今までは藤原京だったんだけど、山に囲まれてて交通の便が悪かった。また、飢饉や伝染病が続いたため心機一転する必要もあったのです。平城京は唐の真似をして急ピッチで工事が始まりました。あまりのハードさに逃げる人が続出。まだ未完成のままお引越ししました。 

碁盤の目のように区画し、20万人が住み始めました。そして東西に市を作りました。これは政府が管理してました。ちなみに、この頃のお役人の給料は米や布など。皇族や貴族は宮城の近くに大きな家を建て、下級役人は離れた狭い家。この頃の役人の仕事は早朝からで遅刻したらダメ。

食事はというと、貴族は1日2回。塩・醤油はあります。主食は米。おかずはカツオ・鯛・アワビなど魚介類中心。ちなみに、果物や乳製品もありました。奈良時代は少数の貴族が華やかな貴族文化を楽しむ一方、藤原氏が勢力を拡大しまくった時代でもあります。


715年 44代 元正天皇

元明天皇は、早く自分の孫である首皇子を天皇にしたかった。やっと14歳になって「皇太子」にし、さぁて天皇にするか!と思ったんだけど、元明天皇はちょっと考えこみました。「首皇子はまだ14歳。母親が不比等の娘だから血統が悪いってことで朝廷内でも反対する空気がまだあるし・・・。だったらアタシの娘で文武の姉である氷高皇女(ひだかのひめみこ)を天皇にさせたほうがいいかも。氷高皇女は美人だし、落ち着いてるし・・」

それにアタシも疲れたし!というのもありました。この時、元明天皇は55歳。人生五十年くらいの時代なので、もうかなりのおばあちゃん。とゆーことで、自分の娘で文武の姉の氷高皇女(ひだかのひめみこ)を715年に44代元正(げんしょう)天皇に即位させたのです。

ちなみに独身女性の天皇は初めて。この頃女性が天皇になったら結婚とか子供産んだりしちゃダメでした。元正天皇は、すっごい美人だったらしいので勿体ないですねー。ちなみにこの時36歳。なぜ結婚しなかったのかは謎


日本最大の政治家!?黒幕 藤原不比等 

不比等は藤原鎌足の次男で、後の藤原氏の基盤を作った人。父・鎌足の遺志を継ぎ、朝廷の中央集権化に力を注いだ人であります。不比等によって藤原家は後々栄華を極めることになりますが、子孫らは天皇を飾り物にして藤原家の権力拡大ばかり考えるようになっていくのです。

不比等は大宝律令を作った中心人物で、708年には右大臣になり和同開珎も発行しました。子供は四男四女をもうけたそうです。長男は武智麻呂(むちまろ)のち藤原南家の祖次男は房前(ふささき)のち北家の祖三男は宇合(うまかい)のち式家の祖四男は麻呂(まろ)のち京家の祖娘の光明子(こうみょうし)は首皇子(のちの聖武天皇)に嫁がせました。

藤原不比等は娘の光明子を首皇子に嫁がせた後、左大臣石川麻呂が死去。右大臣の不比等がトップの座に躍り出ました。そして次男の房前を参議に入れました。ちなみに長男はちょっと体が弱かったから、不比等は次男の方に期待していたらしい。大実力者として君臨していた不比等ですが720年に62歳で死去しました。


藤原不比等がやったこと!

不比等は「大宝律令」の編集をしました。この時は刑部親王(おさかべしんのう)につぐ第二位のランクだったそうです。そして不比等は中臣氏全体が「藤原」を名乗ることを禁止しました。自分のトコの一族だけが「藤原氏」を名乗るようにしたのです。

この頃、大事な事は「会議」で決めていました。おもな有力者たちが集まり「公卿(くげ)」と呼ばれていました。一つの「氏」から1名だったんだけど、不比等はその慣習を破って「藤原氏」から2名選出させたのです。以後、藤原氏は「公卿メンバー」には欠かせない存在に。藤原氏最盛期と言われている藤原道長の時代には公卿20人中16人が藤原氏になっちゃいます。


皇族のエース 長屋王
 

藤原氏の権力を増大させた不比等が死んでから飛び出してきたのが長屋王(ながやのおおきみ)この時45歳でした。長屋王は、天武天皇の孫。父は壬申の乱の時活躍した高市皇子。血統もばっちりで皇族側のエースでした。不比等が死んだことによってNO2からトップの座へあがったのです。ちなみにこの人、昭和63年に邸宅地跡が発見されたこといちやく有名に


723年 三世一身の法(さんぜいっしんのほう) 

朝廷は、農民からもっともっと税金をとろうと考えていました。だけど、農民はすでに祖・庸・調という重たい税金があり超大変。農民は税金が払えずに逃げる人が沢山いたため、田が荒れまくったので朝廷はさらに税収が少なくなり財政難になったのです。そこで税金をばっちり取るための法律「三世一身の法」を作りました

これは、親・子・孫の3代にわたって土地をあなたの物にしますよーというもの。これなら農民ははりきって田んぼを耕すだろ!と思ってた朝廷の読みは大きく外れることに。というのも、せっかく一生懸命田んぼを耕しても、3代終わったらまた朝廷に返さなきゃなんない。そんなのアホくさくてやってられん!という農民が多かったから。

さらに後々、この三世一身の法は、公地公民を壊すモトとなってしまう。今までは田んぼは国の持ち物。だけど、お百姓さんに私有地(田んぼ)を認めちゃったのでのちにこの法律の抜け穴を利用して「荘園」と呼ばれる私有地を増やす貴族が増えちゃったのです。


724年 45代聖武天皇 

孫の首皇子がめでたく24歳になったので45代聖武天皇に即位しました。ここで聖武天皇が詔を出しました。「母である宮子をこれから大夫人(おおみおや)と尊称しろ」と言ったのです。宮子は藤原氏出身でいわば家臣の出。

ところが天皇の母となったのでこれからは「大夫人」という特別の尊称をつけるというのです。これを考え出したのは藤原房前(ふささき・不比等の次男)でした。


宮子夫人尊称事件 

家臣の出である宮子を「大夫人」にするという詔を聞いた長屋王。家臣のくせにそんな特別待遇をするわけにはいかん!と大反対。とうとう天皇が出した詔の回収という前代未聞のこととなりました。恥を書かされた藤原房前は、長屋王を憎悪するようになるのです。


長屋王 藤原四兄弟と険悪に 

聖武天皇は、長屋王を左大臣に任命し政治を行い始めました。それがおもしろくないのは藤原不比等の子ら藤原四兄弟。そして聖武天皇と光明子の間に待望の基皇子が生まれました。藤原四兄弟は、早速その基皇子を皇太子にしちゃったのです。

乳飲み子を皇太子に立てるというのも前代未聞。が、呆気なく基皇子は1歳にならないうちに死んでしまいました。そしてタイミングの悪いことに聖武天皇のもう一人の夫人が安積皇子を出産したのです。

もし安積皇子が皇位についてしまえば、今まで藤原氏が占めていた地位が県犬養氏(安積皇子を産んだ一族)に奪われてしまう!外戚の地位を奪われないためには・・・。藤原一族の将来を賭けた策略が始まるのです。


光明子立后事件 

基皇子が死に、安積皇子が生まれ焦った藤原四兄弟。この時光明子は28歳。「まだ子供を産めるかもしれないが、もし産まれなかったら・・・こうなったら妹の光明子夫人を皇后にたてよう!」と考え始めました。

皇后にしちゃえば皇太子と同じような権力を持ってるし、女帝にもなれる。つまり聖武天皇が死んだりした場合、光明子が女帝となり藤原氏は安泰なのであります。この頃の天皇の奥さんランキングは

皇后→妃→夫人→媛で、皇后は一人、妃は二人、夫人は三人、媛は四人まで。身分は出身によって変わり、妃は皇女、夫人は上流貴族、媛は下級貴族となってました。そして皇后は先代までの天皇の皇女の中から選ばれると決まっていたのです。藤原四兄弟は夫人である光明子を皇后にしようという策謀をはじめるのです。つまり臣下の娘を皇后にするという「オキテ破り」であります。

それには宮子夫人の時にも口を出してきた長屋王が邪魔。また今度も何か言ってくるだろう。その前にあいつを・・と考えるのです。そして事件は突如として起こりました。


729年 長屋王の変 

729年2月10日。2人の下級役人が朝廷にやってきました。「長屋王が天皇の命を縮めようと呪っています。また基皇子をヘンテコな術を使って殺した」とでっちあげを言ってきたのです。朝廷は長屋王の屋敷を包囲。

翌日長屋王は自殺し、その後を追うように妻の吉備皇女(元明天皇の娘)ら子供もみな自殺。あっという間の出来事でした。長屋王は無実の罪によって死んでしまいました。

明らかに仕組まれた事件でしたが、この頃は誰も藤原氏に文句を言えなかったのです。藤原四兄弟は、邪魔者を殺し権力を手に入れました。藤原一族の千年にわたる繁栄のスタートであります。そして光明子も皇后の座をゲットしたのです。


聖武天皇も長屋王がキライ 

なぜこんなに「長屋王の変」がすんなりと言ったかというと・・・時の天皇である聖武天皇も長屋王がキライだったのです。長屋王と聖武天皇はどちらも皇族で、格からいえば同じくらい。長屋王は「天武天皇の孫」なので、生活が豪華絢爛。宮中でも、天皇しか食べることができないくらい高級な「牛乳」や「氷」を、当たり前のように食べてました。それがおもしろくなかったのが聖武天皇。

「何だよアイツ。天皇のオレ様よりもリッチな生活してんじゃん!」と、ムカついてたのです。そのため、下級役人の讒言を信じて、長屋王の言い訳も聞かず、すぐさま長屋王の家を包囲することを許可したのでした。


長屋王のタタリじゃー 

が、長屋王の変から9年間のうちに藤原四兄弟がバタバタと死んでしまいます。当時天然痘が大流行して、朝廷内でもお偉いさんがかなり死んでしまい、人々は「長屋王のタタリ」とかなり恐れました。

まず737年4月17日に次男の房前が死去。57歳でした。お次は7月12日に四男麻呂が死去。そして同月24日に長男の武智麻呂、8月に三男宇合が死去するのです。朝廷は政界の中心だった藤原四兄弟の相次ぐ死に大混乱。もちろん聖武天皇&光明皇后もかなり震え上がりました。特に気の弱い聖武天皇はノイローゼ気味に。次第に政務より呪いを少しでもなくすよう、寺作りなどを始め宗教にはまっていったのです。


739年 橘諸兄(たちばなのもろえ)デビュー

天然痘の猛威は次第に収まってきました。藤原四兄弟の死後、藤原家は大混乱していたため力を失っていきました。次に権力を握り始めたのは橘諸兄(たちばなのもろえ)橘諸兄は光明皇后の異父妹。で、突然権力を握っちゃったもんだから、家臣に相談をしつつ政治を推し進めていくことに。

その家臣とは吉備真備(きびのまきび)という学者と、玄昉(げんぼう)という坊さん。この2人は遣唐使として唐に渡り勉強してきていて、とても頭が良かった。吉備真備は古代豪族 吉備氏の流れを汲んでいました。玄昉は、聖武天皇の母である宮子夫人を催眠術的な祈祷で病気を治したため信頼されていたのでした。橘諸兄はこの2人を重宝し政治を推し進めていきましたが、実はあまり評判がよくなかった。

というのも、前々からいる名門貴族からしてみれば、出身の家柄の低い2人が出てきたのが気に入らなかったのです。


740年 藤原広嗣の乱

この3人が藤原氏を差し置いて政治をやってるのがおもしろくなかったのは、藤原宇合(うまかい・不比等の三男)の息子で嫡男である藤原広嗣(ひろつぐ)藤原広嗣は、藤原氏の政権継承を理想としていたので、この3人が政権を握ってるのが耐えられなかったのです。が、他の藤原一族は広嗣を支持せずに、広嗣だけが反発していました。というのも広嗣はもともと凶暴な性格だったから。

何かと反発していた広嗣は、とうとう738年に橘諸兄らによって大宰府(九州)に左遷され、中央政治の場から追い出されてしまったのです。九州に左遷された広嗣は、中央からの重い税金と相次ぐ疫病によって疲れた人々を目の当たりにしました。九州に左遷されてキレかかってた広嗣。

「なんで名門の出であるこのオレ様がいつまでもこんなトコにいなけりゃならんのじゃぁ!出身の低い吉備真備や玄昉が中央で政権を牛耳ってるのが許せん!!」と、とうとう橘諸兄に反乱を起こすのです。

これが740年藤原広嗣の乱。が、結局これは朝廷軍によって鎮圧されてしまい、広嗣は斬首となってしまいました。 聖武天皇 不可解な遷都しまくり 広嗣が反乱を起こしてる頃、聖武天皇はビビって都を逃げていました。「ボクは思うところがあるのでしばらく関東に行ってます。探さないで下さいね」と言って、あちこち出かけちゃったのでした。

乱が鎮圧されてもなかなか都に戻らず、宗教にはまりまくった。この聖武天皇の行動は、ホントよくわからないコトらしい。光明皇后は色々と頑張ろうとしてたんだけど、肝心の聖武天皇は長屋王の呪いだーワー!ワー!とちょっとノイローゼ気味・・・。また広嗣の乱の恐怖からという説もあります。

この聖武天皇の放浪の旅は5年ほど続きました。戻ってきたのは745年です。


743年 墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう) 

聖武天皇は仏教を信仰するためにあちこちにお寺を建てお金を使いまくったので、財政はかなり貧乏状態に。ここまでくると、庶民は大迷惑。もうお金も底をついたので、三世一身の法を強化した墾田永年私財法を743年に作ったのです。

今までは、3代限定だったけど、これからは自分で墾田したらずーっと自分のモノにしていいよという法律。さすがにずーっと自分の物になるよ!となったら、農民は必死に墾田し始めました。これによって完全に公地公民は崩れることとなります。この頃の庶民らの貧しさを遣唐使の山上憶良(やまのうえおくら)が、「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」という歌に詠みました。


744年 安積親王(あさかしんのう) 不審な死 

聖武天皇の第一皇子であった基(もとい)親王が1歳にならないうちに死んでしまったため、次の皇太子候補は第二皇子である「安積親王(あさかしんのう)」でした。が、藤原氏が必死で安積親王が皇太子になるのを阻止しまくったのです。安積親王は藤原系の女性が産んだ皇子ではない。そのため、藤原氏はこの安積親王が邪魔で仕方があかったのです。

744年、安積親王はお出かけしました。すると突然具合が悪くなり、恭仁宮というところに戻りました。そしてそのまま17歳という若さで死んでしまったのです。この時恭仁宮で留守役をしていたのが、策士・藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ・後の恵美押勝)だったのです・・・・そのため「毒殺説」がささやかれたのです。 


749年 46代孝謙天皇

聖武天皇の後はというと、一人娘しか残ってなかったので、738年にこの娘を皇太子にしました。周りは大ブーイング。女が皇太子になるなんて!とあちこちで反対。女性が皇太子になるのは初めてのこと。

今まで天皇になった女性はいたけど、どーにもなんなくて「とりあえず・・・」って感じでなってるパターンだったんだけど、この場合は「皇太子」からなのでもう「天皇」になることが約束されてた。そして大仏造りの最中に、聖武天皇は最近病気がちってことで天皇を娘に譲りました。そして誕生したのが46代孝謙(こうけん)天皇です。


752年 奈良の大仏完成 

墾田永年私財法によってお金が集まりだした聖武天皇は、ビックプロジェクトに取り組みました!それが奈良の大仏。743年に工事に入り9年後の752年で完成しました。 


鑑真が授戒しにきたよ 

この頃、聖武天皇がのめりこんでた仏教の「授戒(じゅかい)」をするため、中国から鑑真がやってきました。授戒というのは、しちゃいけない戒め(戒律)を伝えて授けること。正式な僧になるには、授戒という作法が必要でした。日本にはまだ戒律を授けることのできる僧がいなかったので、わざわざ来てくれたのです。

鑑真は6回ほど海を出て日本にくるのをチャレンジしたけど、船が嵐にあったりとなかなかこれず、ついには失明してしまいました。それでも何とか日本にたどり着き、やっとこさ授戒を教えることができました。759年には唐招提寺(とうしょうだいじ)を建てました。


藤原仲麻呂→→恵美押勝 デビュー 

長屋王の変後、聖武天皇がガンガンお金を使ったので、庶民らに大きな負担をかけていました。その不満は当時の政権の中心である橘諸兄に向っていき人気急下降。橘諸兄の権力の座は危うくなってきたのです。そんな中飛び出してきたのが、不比等の長男武智麻呂(むちまろ・南家)の次男である藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)

頭脳明晰で、ぐんぐん台頭してきました。本来なら次男の仲麻呂は、出世街道に乗るはずではなかった。だけど、頭が良かったのに加え、叔母である光明皇后に取り入っていったのです。


光明皇后 仲麻呂を可愛がる 

光明皇后は悩みがありました。自分は藤原不比等の娘。「藤原家」の娘なのです。が、藤原四兄弟が死んでしまい、その子供達はイマイチ能力がない。このままじゃ藤原家ヤバイんじゃないの?という感じでした。そんな光明皇后の目に止まったのが藤原仲麻呂だったのです。

勉学にも優れているし、政治センスも良さそうな仲麻呂を光明皇后はめちゃくちゃ可愛がりました。そして仲麻呂はエコヒイキ丸出しの異例の出世をしていったのです。さらに光明皇后の娘である孝謙天皇も、ママの真似をして仲麻呂を大事にするように。ちなみに孝徳天皇とは恋人だったらしい・・・というウワサが。

孝謙天皇と仲麻呂は12歳違いです。


757年 橘奈良麻呂の乱 

756年聖武天皇が死去しました。この時、聖武天皇の悪口を言ったと密告され橘諸兄は失脚していきました。ちなみに翌年高齢のため死亡。橘諸兄が失脚したことにより、怒ったのは息子の橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)

今まで父の橘諸兄のモトでガンガン出世していったのに、突然出てきた藤原仲麻呂がむかついて、とうとう反乱起こそうと計画!ですが、これが仲麻呂に漏れてしまいあえなく失敗。そして、堂々と実力NO1に上り詰めた藤原仲麻呂。名前を恵美押勝(えみのおしかつ)に変えました。

「暴乱に押し勝つ強さ」と、「美しさに恵まれるように」との願を込めて孝謙天皇がこの名前をプレゼントしたのです。


758年 47代淳仁天皇 

独身で天皇になっちゃった孝徳天皇には後継ぎがいない。そこで恵美押勝は、孝徳天皇の遠い親戚で、自分のいいなりになりそうな人を皇太子にすることに成功。これが、47代淳仁(じゅんにん)天皇となります。

恵美押勝は、皇后&天皇のエコヒイキをバックに朝廷の大実力者となっていました。が、押勝もこのへんでやめときゃいいのに、今度は朝鮮半島に戦争をしかけようとしたのです。(新羅侵攻計画)


恵美押勝 新羅遠征へ! 

この頃、唐では玄宗皇帝(げんそうこうてい)が、絶世の美女・楊貴妃(ようきひ)にメロメロ。国内は反乱状態でした。さらに以前から唐と仲の悪い新羅も、これはチャンスと唐を攻撃!唐は日本の朝廷に「助けしてくれ」とお願いしてきたのです。

恵美押勝は「ムムム。このところ新羅は生意気だし、白村江の戦いでも日本は負けまくったからな。あの時の雪辱もあるし、ここはいっちょやったるかぁ?」と悩み中。そこへ中国に派遣してた小野田守(おののたもり)が中国から帰ってきて「唐で反乱が起きてて、向こうはめちゃめちゃ。今のうちに新羅をぶん取って支配しちゃったらどーですか?」とアドバイス。

押勝は、人気絶頂だったので「よっしゃ!戦争しよう!」と決めたのです。が、みんなしたくない・・・。そうこうしてるうちに後ろ盾の1人光明皇后が死去。光明皇后が死んだことにより、戦争の話はうやむやになりましたが、押勝の人気はガクっと下がっちゃいました。そして孝謙天皇も口うるさい母が亡くなってからスッキリ(?)したのか、自由気ままな行動を取るようになるのです。


エロ坊主(?)弓削道鏡(ゆげのどうきょう)

そんな中、孝謙皇后が病気になりました。その時、押勝は実力NO1だったのであまり孝徳皇后のお見舞いに行かなかったのです。そこで、弱った孝謙を看病したのが弓削道鏡(ゆげのどうきょう)というお坊さん。しかも、お祈りで孝謙の病気を治してしまった!?これがきっかけで、道鏡は孝謙の大のお気に入りに。この時道鏡は50歳くらい。孝謙は40歳なかば。

孝謙は天皇となってしまったため結婚もできない状態仲良しの押勝は自分の野望のためにアタシに優しくしてくれているだけかも・・・そんな感じで過ごしていた中に道鏡登場。孝謙の孤独を癒してくれたのでした。弓削とは弓を作る部族のことで、物部氏と親戚関係がある一族。ですが地位は物部氏よりずっと下。

ちなみに道鏡は江戸時代「道鏡は座ると膝が3つあり」と言われました。これで孝謙皇后をノックアウト(?)


孝謙天皇と恵美押勝 確執がエスカレート 

孝謙皇后が道鏡を気に入ってしまい、道鏡はガンガン出世してきちゃいました。押勝は焦りを感じ、朝廷内の主要な部門に自分の一族を置き始めたのです。が、これが周りの反発を買ってしまいさらに人気が落ちちゃったのです。困った押勝は、淳仁天皇にあんまり道鏡と仲良くするなって言っといてよ!とお願い。淳仁は最初から押勝の言いなりだったので、仕方なく孝謙皇后に「みっともないからあんまり道鏡と仲良くしないほうがいいんじゃないの?」と忠告したのです。

孝謙皇后はこれをカンカンに怒りました。「もうあんたには仕事させない!」と、大事な政務は全て孝謙皇后&道鏡がやり、どーでもいい仕事を淳仁天皇にやらせる!という宣言をしてしまうのです。道鏡との恋路を邪魔されてなのか?それともあらぬ疑いをかけられて腹が立ったのかはわかりませんが、この宣言により押勝の権力は奪われてしまったのです。


764年 恵美押勝の乱
 

いよいよ押勝は打つ手がなくってしまいました。今まで兄妹のように仲良くしていた孝謙天皇が道鏡に心奪われ、自分の敵となってしまったのです。怒りまくっている孝謙天皇は、押勝と仲のいい家臣を次々と朝廷から追い出しはじめました。仲麻呂もここまでやられちゃ黙ってはいられない。とうとう反乱を起こす準備を整え始めたのでした。が、これが孝謙天皇にバレてしまい、先手を打たれ反乱は大失敗。

これが恵美押勝の乱。これにより押勝は家族とともに斬殺され、淳仁天皇は淡路島へ島流し。淳仁はその後島から脱出しようとし捕まって死んじゃいました。ある意味一番気の毒なのは淳仁天皇かも。


764年 48代称徳天皇 重祚しちゃいました 

邪魔者がいなくなった孝謙皇后&道鏡。淳仁天皇が廃帝になったため、後継ぎのいない孝謙皇后が名前を変えまた天皇に。これが48代称徳(しょうとく)天皇同一人物が二度皇位につくことを重祚(じゅうそ) といいます。

ちなみに女性のために国が滅びることを「傾国(けいこく)」と言うそうです。ちょっと差別的な感じもしますが、称徳と道鏡の関係はまさにこれ。道鏡はさらに称徳天皇に可愛がられ、最終的に天皇の次に偉い役職まで出世。そして称徳は自分の権力維持のために、次々と台頭してきそうな権力者を潰しまくるのです。


初の坊さん天皇誕生か!?宇佐八幡神託事件 

称徳天皇は次の天皇は道鏡に・・・と考え始める。というのも、称徳天皇は独身で子供もいない。押勝のプッシュで遠い親戚の淳仁天皇に後を譲ったけど、気に入らなくてまた自分が天皇になるし。後は後継ぎにする近い親戚は・・・と言っても、お父さんの聖武天皇は一人っ子だし、お母さんの光明皇后は藤原氏出身で、みんな押勝みたいなのばっかでいまいち信用できないし・・・。

こうなったら、自分が一番信用している道鏡を次期天皇に!!と考え始めたのです。だけど、今まで天皇家以外のヨソもんが天皇になった例は一度もない。が、称徳天皇はその常識を破ろうと決心したのです。しかし周りのみんなは納得しない。

その時、九州の宇佐八幡という神社の神様が「道鏡を天皇にすれば日本は平和になるよー」という噂が広まりました。称徳天皇はこの噂の真偽を確かめるため和気清麻呂(わけのきよまろ)という家臣に宇佐八幡まで行かることに。後は和気清麻呂が「あの噂は本当です!」と言うのを待つだけで、早く帰ってこないかなー♪と楽しみにしていた称徳天皇&道鏡。

が、帰ってきた和気清麻呂は大勢いる前で「あの噂はウソです。天皇はやはり天皇の親族から出すようにとのことです!」と発表してしまったのです。神の声なんてないんだから、これは和気清麻呂の本心。

称徳天皇大激怒!!!みんなの前で発表されたもんだから、もう道鏡を天皇にすることは出来なくなっちゃった。称徳天皇は怒り収まらず、和気清麻呂の名前を穢麻呂(きたなまろ)に改名して九州に流しちゃったのです。さらに怒りは収まらず、道鏡は九州に行った穢麻呂を暗殺しようとしたらしい。

これが宇佐八幡神託事件。その後も称徳天皇は何とか道鏡を天皇にさせようと頑張るんだけど、決め手がないまま翌年死んでしまいました。道鏡は、称徳天皇のモトで好き勝手やってたので周りから嫌われてました。称徳天皇が死んだ後すぐに謀略の疑いあり!とされ、身分を落とされ左遷。天皇の次に偉い人まで出世したのに、死んだ時は一般市民として葬られたのです。


770年 49代 光仁天皇 

後継ぎを決めないまま死んじゃった称徳天皇。道鏡も失脚し、朝廷は次期天皇を巡って緊張が走りました。次の権力者は?という時に出てくるのが藤原氏。今回も藤原永手(ながて・北家)と義継(よしつぐ)というのが出てきて次の天皇を決めちゃったのです。

道鏡時代なんとか頑張って右大臣の座についていた吉備真備は、天武天皇の血統である大市をプッシュしたけど、藤原氏はニセの遺書を作って白壁王を後継者に。あきらかなニセ遺書でしたが、孤立無援な老大臣 吉備真備はなすすべナシ。天武天皇の血統がいるにも関わらず、天智系の血統が天皇になったのです。

そして49代光仁(こうにん)天皇が即位したのです。この天皇は称徳天皇にとっては遠い親戚で、天智天皇の孫にあたります。称徳天皇が有力な天皇候補を次々とぶっ殺していくのをみて、酒に溺れたバカのフリをして身の危険を交わしてきた人でした。が、この人即位した時すでに62歳のじーさん天皇。

即位したと同時に後継ぎ問題が発生したのです。光仁天皇は若い頃、渡来人の女性と結婚していて山部王・早良王という息子がいました。だけど自分は天智系なので、ちょっと遠慮して皇太子には天武系の他戸皇子を皇太子としておきました。そして朝廷から道鏡一派をお掃除開始。貴族達は大満足でした。


772年 藤原百川の陰謀始まる 

政治がだんだん安定してくると、藤原弐家(不比等三男の宇合のトコ)の藤原良継・百川ブラザーズが出てきました。そして弐家と仲の良い山部王を皇太子にしたくなっちゃったのです。山部王は渡来人の血が入っているため「血統が悪い」と、長子でありながら皇太子にはなれませんでした。ですが藤原弐家と仲良しとなり、良継・百川は「こいつが天皇になったら俺らやりやすいかもな・・・」と思うようになったのでした。

ある日、百川のところに「皇后が天皇を呪い殺そうとしている」という密告が。そして皇后とその皇子である他戸皇太子が幽閉されてしまったのです。そしてなんと3年後の同じ日に2人は死んだのです。結果、他戸皇子の後釜に入ったのは山部王でした。これは百川らの陰謀に間違いありませんでしたが、藤原氏に刃向う人もおらず事件は闇の中へ。


781年 50代桓武天皇 

光仁天皇は年寄りだったから疲れちゃって、山部皇太子に天皇を譲りました。これが781年50代桓武(かんむ)天皇です。そして皇太子には光仁天皇のお願いを聞き、実弟の早良王を置きました。

桓武天皇は自分の出生が悪いのがコンプレックスだったため、血統のいい天武天皇系の皇族を徹底的に潰しにかかりました。そして早速、反乱が起きちゃいます。反乱を起こしたのは天武系のエース氷川川継(ひかみのかわつぐ)両親ともに天武系で、母親は聖武天皇の娘と血統は抜群。が、事前にバレてしまい逮捕。

この事件に絡んでいた藤原四家の「京家」は、ここで早くも歴史から姿を消すのです。そして桓武天皇をがっちりガードしていたのは藤原弐家でした。
 784年 桓武天皇の取り巻き 

この年桓武天皇は人事異動を行いました。左大臣は空席で、右大臣に藤原是公(これきみ・南家)大納言には藤原継縄(つぐなわ・南家)そして中納言と大出世したのが藤原種継(たねつぐ・弐家)でした。

種継は良継&百川の甥っ子です。桓武は弐家に恩を感じていたので異例の出世をさせ、種継を可愛がったのです。これにて桓武政権は奥様連中も藤原一族で占められ、公卿も藤原一族でほとんど占められました。

当然、藤原一族ばっかが偉くなってるのがおもしろくない人が出てきます。代表的なのが中納言の大伴家持でした。大伴家持をトップとする大伴一族は、桓武天皇は藤原ばっか可愛がってるからダメだと早良親王につくのです。


長岡京を作るぞー 

桓武天皇は「奈良は坊さんがうるさくてイヤだなぁー」と思い始めました。というのも、玄昉(げんぼう・橘諸兄の時出てきた遣唐使の坊さん)や道鏡らの坊さんが政治に首を突っ込んでたし、聖武天皇が仏教にはまりまくって大仏や国分寺を作ったりして仏教を保護してたので、奈良では坊さんがエバってたのです。

桓武天皇はそれにうんざりしてました。桓武天皇は奈良はイヤだーってことで京都に長岡京というお城を作ることに。

これをまかされたのが桓武に信頼されてる藤原種継。が、種継が何者かによって暗殺されてしまう事件が発生したのです。そして暗殺の容疑者として捕まった男が「大伴氏に命令され、早良親王の許可ももらった」と供述するのです。


早良親王の怨霊だー 

桓武天皇には早良親王(さわらのみこ)という弟がいたんだけど、実はこいつが嫌いだった。早良皇子が皇太子なんだけど、桓武は自分の息子である安殿親王を天皇にさせたかったのです。

そのため早良が邪魔だったんですねー。また早良親王には反藤原氏勢力の権力者 大伴家持がついていたのです。で、この暗殺の犯人が早良だ!とされてしまう。

早良は、オレは犯人じゃない!と抗議をするが、聞きいれてもらえずハンストを決行!で、とうとう淡路島に流される間に餓死してしまったのです。そして早良が死んだので、桓武天皇は自分の息子である安殿親王を皇太子としたのです。

それからというもの、長岡京では洪水があったり、疫病が流行ったり、次々と人が死んでいったり。陰陽師に占ってもらったところ「早良皇子の怨霊のせい」となって都は大パニック。桓武は死んだ早良皇子に「崇道天皇」という名前を与えたり、お墓をピカピカにしたりした。で、不幸続きの長岡京をとりやめにして平安京を新たに作ることにしたのです。

ちなみに平安京を作りましょうといったのは、あの和気清麻呂。道鏡事件の後、許されて朝廷に復帰していたのでした。桓武天皇はすぐ長岡京の取り壊しにかかり、すごい勢いで平安京を作り始めました。きっかけは「平安」ではありませんが、次からは平安時代のスタートです!


朝廷のお偉いさん。

ここで朝廷のお偉いさんについて一番えらい順からいうと

左大臣→右大臣→大納言→中納言→権中納言→参議→権参議となります。

そして公卿とは大臣・納言・参議および三位以上の人をいいます。位が四位でも、参議になれば公卿であります。五位からが「貴族」の仲間入りです。平安時代は中臣鎌足から始まる藤原一族が栄華を極めまくるのです。でも実際は中臣鎌足の次男である藤原不比等の息子ら四兄弟によって藤原四家と呼ばれますます栄えていくのです。

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